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家族を奪った津波 もし一緒にいたら...正解を探し続けた13年 遺族の言葉から学ぶこと
東日本大震災で、福島県内では1614人の方が亡くなった。あれほどの地震と津波を、誰が事前に想像できただろうか...13年前に家族を失った人の言葉から、命を守るための避難について学ぶ。
◇【動画で見る】動画はYouTube 福島ニュース【福テレ】でご覧いただけます。
故郷をつなぐ...仕事は生きがい
厨房で腕を振るうのは舛倉美津枝さん。2023年12月に故郷・福島県浪江町で食堂を始めた。「毎日30分かけて、南相馬市原町から来る。帰りには疲れるが、寝て起きたら"あっ!行かなきゃ"って体が動いてしまう。ここで働けば、浪江のみんなをつなぐんじゃないかって。私の生きがい」と話す。
町のみんなを繋ぐ存在になりたいと、孫たちと店を切り盛りしているが、舛倉さんにとっては希望だけが詰まった故郷ではなかった。
家族を奪った津波
2011年5月。舛倉さんは防護服に身を包み、震災後初めて浪江町請戸に戻った。目の前に広がるのは、変わり果てた故郷の姿だった。
「こんなにすごいと思わなかった。テレビでは見てたけど、現実に見たらものすごいですね。もう言葉にならないですね」
津波で亡くなった姉の美代子さんが大好きだった歌を響かせた舛倉さん。津波で流された自宅に向かう途中に、傷だらけになった美代子さんの車を見つけた。
「なんでもっと早く逃げなかったんだ...バカ...バカ...」
津波に飲み込まれた母・千代子さんは、今も行方が分からず、家族も思い出も一瞬のうちに奪われた。
母たちと別れ自宅へ その時、津波が
震災の津波で請戸地区では127人が亡くなり、27人の行方が分かっていない。
地震が発生した時、姉の家に姉や母たちと一緒にいた舛倉さん。しかし「自分の家にいる夫の母親の様子を見てくる」と2人と別れた。
その後、避難のため自宅を出た時には、津波が目の前に迫っていたという。
「すぐ隣の空き地に、隣人たちが座り込んでいた。"腰抜けた"と言って、家族で輪になっていた。その時に、海の方を見たらもう真っ暗になってて、津波が沖から来てたんだと思う」と当時の様子を話す。
一緒にいたら...自問自答の13年
舛倉さんは、実際に津波を目の当たりにするまで「津波が来る」とは想像もしていなかったという。一緒に逃げていれば、母と姉の命は助かったかもしれない...逆に自分も津波に飲み込まれたかもしれない。どうするのが正解だったのか、自問自答する13年を過ごしてきた。
「13年...徐々に薄れていく気持ちもあるみたい。やはり風景が変わってしまうと、自分の家を探すのにも大変だし、分からない。これはこれで、場所として見守っていくという形にして、あとは今度住むところで家族団らんに過ごせればいいかな」
舛倉さんは、13年ぶりに娘家族と浪江町に戻り、津波が到達しなかった場所で新たな生活をスタートさせる。
家族と一緒にいながら、その場を離れる判断をしたことを舛倉さんは今も悩んでいる。全員が揃っているとき、そうでないとき、家族でどう動くかを事前に決めておくことが重要だと教えてくれた。