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最後の日本兵・小野田寛郎元少尉 子どもたちの未来を託した自然塾 没後10年...思いをつなぐ再スタート【福島発】
1974年、ひとりの日本兵の戦いが終わった。旧日本陸軍・小野田寛郎元少尉は、終戦から29年間フィリピン・ルバング島に潜伏し任務遂行の命を守り続けていた。2014年に91歳でその生涯を閉じるまで、小野田さんが"未来"を託した場所が福島県にある。
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小野田さんの強い信念
「人との約束とか人を信じるとか、そういうことではあの人に勝る人いないでしょうね」と語るのは、塙町の元町長・二瓶隆男さん。福島県塙町にある「小野田自然塾」の開設に携わり、小野田さんと交流を深めてきた。
「とにかく教育をし直さないとダメだと、それをやるのは僕しかいないと。それが小野田さんの信念。それが自然塾を開く発端になった」と語り、二瓶さんも強い信念に心を突き動かされたという。
学校・家庭でできないことを
帰国直後、「時の人」となった小野田さん。しかし「軍国主義の亡霊」など、心のない言葉を浴びせられるようになった。小野田さんは日本を離れ、生活の拠点をブラジルへ。
しかし1980年代、日本で子どもによる凶悪事件が相次いでいることを知り、小野田さんの情熱は子どもたちの教育にむけられた。
二瓶さんは「凶悪事件を知ってから、子どもの教育をやり直さないとダメだと。だから学校教育でもできないこと、家庭教育でも出来ないことをやるとのが小野田さんの信念。それが原点」と語る。
私財を投じ塙町に開塾
関東圏からのアクセスの良さ、良質な湧き水があること。そして人工的な明かりが一切ないことなどの条件に合致した場所が、福島県塙町の山間部だった。
小野田さんは私財を投じ、自然塾を開塾した。学校の先生も、面倒を見てくれる親もいない環境で、自然の中で周りの人と助け合い過ごす。
1989年8月1日の取材で、小野田さんは「60歳くらいであの島でお釈迦になるだろうと覚悟した人間が、52歳で帰してもらって生きているんですから。やはり自分なりのことでお返ししないといけないと思っていた」と語っていた。
自分と同じ体験をさせたくない
当時、塙町役場で自然塾の担当をしていた天沼恵子さんは、小野田さんからは戦争がもたらした"孤独"も見え隠れしたと話す。
「とても優しい人として満ちた感じの方で、いつも笑っているが目の奥に厳しさを感じる人でした。それは、自分との戦いがいつもあったからと思います。信念の根底は、自分の体験はさせたくないという、平和への思いだと思います。日本の子どもたちの将来を考えて、その子どもたちが自分で善悪を区別して考え、心も体も強くなって大地に根を張る。善悪をきちっと判断する。そうすれば、戦争がない世界になると小野田さんは思っているのだと思います」と天沼さんはいう。
小野田さんの教えを再び
命の大切さとともに「人は自然の一部」「自然に逆らって人は生きていけない」こう子どもたちに伝え続けてきた小野田さん。これまでに、全国から延べ4万人以上が自然塾を訪れ、その教えを学んできた。
小野田さんが亡くなり、10年。自然塾は現在、一般財団法人が管理・運営している。施設の老朽化に加え、新型コロナウイルスの感染拡大で休止してきたが、小野田さんの遺したメッセージを胸に2024年9月に再開する。
小野田記念財団の大友長悦理事長は「小野田さんのフレーズがあって"自然は最高の教師である""人は1人では生きられない" もう一度その思いやエネルギー、小野田イズムを復活させて、出来ればそういう方向に持っていきたい」と語る。
最後の日本兵・小野田寛郎さんが託した、平和への願い。これからも、ここ福島の地で息づいていく。