津波に流された両親「探しに行きたかった」原発事故で叶わなかった無念 憎んだ海と向き合う《震災12年》
原発事故で津波に流された両親を探せなかった...「言葉にできない」両親との別れをそう語る男性。いまも恐怖を感じるという海へ船を出した。あの日から12年、心の変化を取材した。
<美しい海が一変 多くの命を奪う>
全長120キロにわたる雄大な海岸線。太平洋に面した福島県の「浜通り」は海と共に息づいてきた。この美しい海が、2011年3月11日 姿を変えた。津波は「命」を「街」を「大切なもの」すべてを飲み込んでいった。
福島県内で津波などが直接的な原因となった「直接死」は1605人に上る。
<探したいのに...避難を強いられる>
福島県楢葉町の四家徳美さんは、両親2人と楢葉町波倉地区で暮らしていた。
地震の直後は、避難所での給水支援にあたった四家さん。その夜、家に戻るとそこには津波で流された自宅。両親の姿はどこにもなかった。
「もしかしたらこの寒空の中、がれきに挟まってまだ生きているのではないか」「2人は生きている」「きっと山に逃げている」そう思っていた矢先のことだった。
福島第一原発の水素爆発。国は3月12日、福島第一原発から半径20キロ圏内に避難指示を発令。四家さんも、いわき市や会津美里町に避難をせざるを得なかった。
その時の心境を「バリケードくぐって、探しに行きたいのは山々だった。何度も夜目が覚めて、今からでも探しに行こうかと思った」と語る。
2人にようやく会えたのは、約40日後のこと。場所は福島県相馬市の遺体安置所。着ていた服と腕時計から両親と判明した。
<憎んだ海へ 墓参りの気持ちに>
家族の命を奪い去った"恐怖"の海。しかし、その存在を少しずつ変えるきっかけも"家族"だった。
30年以上前、釣りが大好きだった父・丞さんに説得され取得していた小型船舶操縦士の免許。3年前に新潟県に住む親戚からプレジャーボートを譲り受けたことで、初めて福島の海に出た。父を釣りに連れていく約束は果たせなかったが、この場所に来ることに意味を感じている。
「お墓参りのような気分になる時もあります。知り合いが、ここに散骨されているので。311の津波で、海から離れた人は結構いると思う。自分もその中の一人かもしれないが、機会あってこうやってできるので。それは感謝したいと思います」
海に出るのに、怖さがないわけではない。それでも海に出ると目の前に広がるこの光景に...少しずつ魅力を感じ始めている。
「やはり今よりも大きい船で、もう少し外洋のほうに出られたらいいかなと思っていますし。乗りたい方いらしゃったら乗っけて、この風景を一緒に見てみたいなと思っています」
少しずつ歩み続けた12年。震災で失われたすべての尊い命に思いを馳せ、これからも歩み続ける。